石川寅治 作品一覧
石川寅治の作品一覧です。作品画像をクリックすると詳細がご覧になれます。※ 掲載作品は常時画廊で展示されているとは限りません。直接ご覧になりたい場合は事前にご連絡ください。
石川寅治作品一覧 | 作家名 | タイトル | 技法 | サイズ |
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石川寅治 | 朝の富士 | キャンバスに油彩 | F4号 | |
- 売却済み - |
石川寅治 | 河口湖の富士 | キャンバスに油彩 | F4号 |
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石川寅治 略歴 (1875-1964)
いしかわとらじ - Toraji ISHIKAWA Profil - | |
1875年 | 高知県高知市において石川義忠の長男として、明治8年4月5日生まれる。 |
1891年 | 2月洋画修業を志して上京し、小山正太郎画塾不同舎に入学。 中村下折、下村為山、岡精一筆の後輩として勉学した。 |
1893年 | 明治美術会展に初めて「野鴨」を出品。 |
1895年 | 明治美術会展に「湯浅伍助」を出品。 |
1896年 | 明治美術会展に「農家」を出品。明治28年より29年に亘り、師、小山正太郎が浅草パノラマ館に日清戦争「平壌包囲攻撃」及び「旅順総攻撃」の大画面作製に当り助手を勤めた。 |
1897年 | 明治美術会展に「帰来洗刀」を出品。 |
1898年 | 明治美術会展に「裸婦」を出品。 |
1899年 | パリ万国博覧会に油絵「竹林」を出品。 |
1901年 | 郷里高知で結婚した。11月満谷国四郎、吉田博、中川八郎の同志と太平洋画会を結成。 翌年より毎年展覧会を開催。また研究所を下谷区真島町に設置して後進の指導につとめた。 |
1902年 | 10月絵画研究の為アメリカへ渡り、ボストン、バッファロー、デトロイトで所持の水彩画の展覧会を開催。 |
1903年 | 3月ヨーロッパに渡り各国の美術館を見学。 |
1904年 | 6月印度洋を航して帰国。 |
1905年 | 翌明治39年にわたり師、小山正太郎が浅草パノラマ館に日露戦争「旅順総攻撃」及び「奉天会戦」の大画面作製にあたり、助手をつとめた。。 |
1907年 | 東京勧業博覧会にパステル画「静物」を出品して3等賞牌を受く。 第1回文展に「秋雨」「乙女」(パステル)を出品。 |
1908年 | 第2回文展に「菊」「白百合」「金魚」を出品「菊」は三第賞。 |
1909年 | 第3回文展に「葡萄」「桃の節句」を出品。 |
1911年 | 10月第5回文展に油絵「雨の日」を出品。 12月より翌年3月まで琉球に旅行し那覇、首里、中城、糸満等各地を写生した。 |
1912年 | 第6回文展に「鞆の津」「まる窓」を出品。 |
1913年 | 第7回文展に「港の午後」「雨やんだ朝」「虫干」を出品。「港の午後」は2等賞。 |
1914年 | 大正博覧会に油絵「秋晴」「漁村」の真書を出品。 第8回文展に油絵「母の着物」「西日さす浜辺」を出品。 |
1915年 | 第9回文展に油絵「深潭」「野うるし咲く頃」を出品。 |
1916年 | 第10回文展に油絵「水郷の黄昏」を出品。 サンフランシスコ世界大博覧会に「静物」を出品して三等賞牌を与えられた。 |
1917年 | 台湾に旅行し二ケ月に亘り蕃界に出入して各地を写生し30余点の油絵を描き台北で展観し、更に内地に持帰り東京及び大阪三越で展覧会を開催して台湾の風景を紹介した。立太子礼奉祝献納画台湾風景を描くために渡台して「高雄港」を写生した。 第11回文展に油絵「驟雨の徴」を出品。文展規定により推薦以後無鑑査。。 |
1918年 | 師、小山の後を受けて東京高等師範学校講師になり図画専修科を担当、爾来15年間図画教育に尽した。10月台湾総督府嘱託になり新庁舎会議室に2面の壁画を描くことになった。同月満州、朝鮮に写生旅行し、大連で展覧会を開催した。 |
1919年 | 台湾に渡り総督府新庁舎の壁画を納入した。文部省教育検定委員会臨時委員となり、昭和8年8月迄15年間勤続。第1回帝展の審査員に選ばれ、同展に油絵「雨歇んだ朝」「深碧の流」を出品。 |
1920年 | 第2回帝展に審査員として油絵「卓上」「深淵」を出品。 |
1921年 | 東京市外滝野川中里にアトリエ並に住宅を建築して移転。 第3回帝展に審査員として油絵「化粧」「驟雨の後」を出品。 |
1922年 | 平和記念東京博覧会審査官となり同展に「妙高山」を出品。 第4回帝展に審査員として「雨後」「高雄港」を出品。 |
1923年 | 台湾総督府より、明治神宮絵画館へ献納の北画揮毫を依嘱され材料蒐集のため渡台。 |
1924年 | 第5回帝展に委員として「晴れ行く朝」「花園」を出品。 |
1925年 | 中等図画教科書「最新図画」を編輯し冨山房より発行。第6回帝展に「南国の船」「ダリヤ」を出品。 |
1926年 | 聖徳太子奉賛展委員となり、同展に「浴後」を出品。第7回帝展に審査員として「花」「柏島の朝」を出品。台湾総督府より明治神宮絵画館に献納の「北白川宮殿下台北入城」の壁画を完成した。 |
1927年 | 文部省より教員検定委員会無試験検定調査事務を嘱託する。第8回帝展に「野尻湖」「仔猫」を出品。 |
1928年 | 昭和7年まで、朝香宮妃充子内親王殿下並に喜久子女王殿下に絵画教授申し上ぐ。 第9回帝展に審査員として「少女」を出品。 |
1929年 | 第10回帝展に「下田港」を出品。 |
1930年 | 上海より蘇州、杭州へ旅行、江南風景を写生す。第11回帝展に審査員として「蘇州の春」を出品。 |
1931年 | 第12回帝展に審査員として「凝視」を出品。 |
1932年 | 第13回帝展に「雨後の港」を出品。 |
1933年 | 第14回帝展に「瀞峡」を出品。 |
1935年 | 第2部会の審査員となり「造船所」を出品。 |
1936年 | 新文展の委員となり、「鏡前」(臨時、招待展)。 |
1937年 | 3年間、朝香宮湛子女王殿下に絵画教授申し上ぐ。海軍館に「地中海海戦」を描き、第1回新文展に「憩い」を出品。 |
1938年 | 第2回新文展審査員となり「港」出品。海軍省嘱託となり、中支那方面に派遣され「渡洋爆撃」「鎮江攻略」の作戦記録画を描く。 |
1939年 | 海軍省軍務局事務嘱託となる。第2回新文展審査員となり「長江遡帆」を出品。 |
1940年 | 支那事変に於る勤労により賜品及従軍記章拝受。紀元2600年奉祝展委員となり「出湯の宿」を出品。 |
1942年 | 第5回新文展に「港」を出品。 |
1943年 | 第6回新文展に「造船場」を出品。海軍省より「南太平洋海戦」の記録画作製を命ぜられ資料蒐集のためラバール方面に出張、帰還後完成。中村不折の後を受けて太平洋美術学校校長に就任。 |
1944年 | 11月東京都板橋区に住宅を建築して移転。 |
1946年 | 3月第1回日展に「裸女」を出品。 |
1947年 | 東京都美術館参与となる。第2回日展に「農事忙」を出品。11月太平洋画会を脱退し、新に示現会を結成しその代表となる。 |
1948年 | 第4回日展に油絵「佐渡金山」を出品。 |
1949年 | 東京教育大学講師となる。第5回日展審査員となり「新緑の頃」を出品。 |
1950年 | 日展参事となる。第6回日展に「新緑の庭」を出品。 |
1951年 | 第7回日展審査員となり「山間の温泉郷」を出品。 |
1952年 | 第8回日展「岩風呂」を出品。10月上野公園精養軒で喜寿の祝賀会を開催。 |
1953年 | 5月多年の功績により恩賜賞授与。第9回日展に審査員として「白川村の春」を出品。 |
1954年 | 第10回日展に「川なかの温泉」を出品。 |
1955年 | 第11回日展に審査員として「銚子の海」を出品。 |
1958年 | 日展改組され社団法人日展となり監事に就任。 |
1963年 | 米寿祝賀会及び記念会展を開催。 |
1964年 | 8月1日逝去(90歳)。 |